ゲームとネットという「認めてくれる場所」あったから、私は今も生きている。

「何かためになる事を書こう」

そんな事を思って文章を書き始めたのは、今から数年前のこと。

そうしてしばらく経つが、書いている内にたまに「ためにならない事でも書きたい」という時期がやってくる。なのでためにならないかもしれないが、ふっと書いてみたい事を書いてみようと思う。

ブログを書き始める理由は人それぞれだが、私の場合は文章を書く力をつけたいという事と、文章でお金を稼いでみたい、という事だった。

その動機は仕事の悩みが大きい。勤めていた会社が倒産し、転職を余儀なくされ、何とか新しい働き口を得る事ができたものの、そこがどうにも合わず、馴染めず、今まで普通に出来ていた仕事すらミスが多発し出来なくなってしまったのだ。

心療内科に行ったのもその仕事についてからである。人間関係の悩み、会社の社風や環境が合わない悩み、それが積もり積もって限界が来てしまったからである。

私の職場の上司は「良い人」であったと思う。けれど、色々を心療内科の先生に相談したところ「それはパワハラだよ」と言われた。パワハラというものは知っていたが、実際にそれがパワハラであったとは思わなかった。恐らく、上司もそうだろう。

それからただ言われるがままになっていた思考を、そういう意識をして「聞く」ようにしたところ、私が言った言葉、行動、それを柔らかい言葉で全否定されていた事に気が付いた。

だんだんと自分に自信が無くなり、全部自分が悪いと思うようになり――とにかく苦しかった。けれどお金の心配があってなかなかやめられず、それならばお金を稼ぐ方法を探そうと、ブログやライティングの仕事に辿り着いたのである。

例え無意識であっても、否定され続けると人間は脆くなる。自分に自信がなくなるからだ。

例え「自分はこのくらい耐えられるのに」と思って言った言葉でも、他人は自分ではない。同じようには耐えられない。

例え「あなたのため」と言われても、自分のためになる事は自分で分かる。あなたのためと思っているのは、それは自分のためのもの。

日本人は昔から「みんなと同じ」という事に安心感と、強制心を持っている。違う何かが許せない、認められない。

けれど私のように、違うと言われても、何とか混ざろうとして苦しくなる人間だっている。

世の中が楽しいと思いたい。世の中は良い物だと思いたい。

正直なところ、その頃の私は――今もだが――リアルの人間関係よりも、ネット上のごくごく軽く、そして趣味の合う人たちとの間の「お互いがマナーを守っている手探りの人間関係」に救われた。

ゲームがあったからこそクリアするまで生きようと思った。

それは「自分を認めてくれる」ものが、そうであったからだ。

大きくとも、小さくとも関係ない。

認められるという事は、人を生かす。

願わくば私もそういう人になりたいものだ。