物語における「完結」という存在の必要性

本好きの下剋上、という作品を連載開始頃からずっとリアルタイムで追ってきたのですが、今日とうとう最後のエピローグが更新され『完結』との文字を見ました。最後の最後で「いつか見たいな」と思った光景を読む事が出来て、幸せでした。

およそ三年半、これだけの熱量を持った作品をほぼ毎日更新され続け、完結まで描き切って下さった香月先生には感謝の気持ちでいっぱいです。本好きの下剋上の更新を読みたいがために、仕事のしんどさを乗り切っていたようなものだったので、実を言うと少しさみしいかったりもするんですけどね……!

本当にお疲れ様でした! 素晴らしい物語をありがとうございました! 本好きの下剋上、大好きです!書籍版が出るのが今からとても楽しみ……!

本好きの下剋上が完結を迎えたことで、終わらない物語はないし、終わらない物語はつまらないという言葉を思い出しました。ツイッター上だったか、知人だったかは思い出せないのですが、確かに、と思いました。完結してしまうとさみしいけれど、完結するからこそ面白い、と言いますか。

『終わる』という事は別に全てがなくなるというわけではないんですよね。たとえば朝起きてから夜眠る、といった日常生活も物語に絡めて言えば起床がその日の物語の始まりで、就寝というのが完結です。翌日に目が覚めれば私達は次の日の物語を綴っていく事になるのですから。

創作における完結は「続きを想像できる完結」と「続きが想像できない完結」があると私は考えます。本好きの下剋上という作品ならば前者、未来を思い浮かべていたい作品だと思っています。私の好みで言うと前者の「続きを想像できる完結」ですね。

とくにハッピーエンドが好きなので、今後を想像できる幸せな結末を見ると自然と顔がほころんできます。多少悲しい終わり方であっても、未来に希望を持てるような明るい欠片があるものも好きですね。

「続きが想像できない完結」は、世界が滅ぶなどの何かしら『無』の状態で終わるものか、もしくは全てを書ききった上で「これ以上はもう書けない」という全力を出し切った状態の完結でしょうか。これですと、全てを出し切った後者が好きです。

良い意味でズートピアがこれにあたるのではないか、と私は思っています。ズートピアはストーリー構成や、登場人物達の視線、手の動きのどれをとっても素晴らしい作品だと私は思っているのですが、同時にこの作品の中ですべてが見事に完成されているので、これ以上(続編など)は良いかな、と思ってしまうんですよね。もちろん続編が出たら嬉しいですし見たいとは思います。

でも完成された作品だからこそ、敢えて続きがなくても良いかなって思うのですよね。例えばアナと雪の女王のワンシーンにラプンツェルとユージーンがちらっと映っているとか、そんな感じの断片的な登場だったら見たい、というような。上手く言葉にするのが難しいのですが、そんな感じです。

ちなみに完結させる、というのは書く側としてもとても力のいる作業なんですよね。プロット通りに進まない事もありますし、書いていると「あれ、こっちの方が良いのでは?」って思って筆が止まる事もよくあります。そういう時には完結から考えるという方法もあるのですが、その時に「完結をどちらに持って行きたいか」で考えると漠然とではありますが、そのルートが浮かんで来るので、合わせ技におすすめです。